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飯野陣屋

富津市には多くの古墳群が散在しているが、その古墳群の中に日本三大陣屋といわれる「飯野陣屋」が昔の面影を残して保存されている。飯野陣屋の変遷については「エコトピアほしな発行 飯野藩付飯野陣屋」に詳しく記載されているのでこれを基に紹介する。
本誌は先日、古墳群を訪ねた際に地元の方からいただいたものでよい資料をいただけたと興味よく読んだ。感謝するばかりである。

1.飯野陣屋
陣屋とは
陣屋とはいったいどのようなものを言うのであろうか? 陣屋は時代によってその役割が変化している。平安時代には、宮中を警固する衛所の詰所をいったが、鎌倉時代以降では合戦の際に、軍兵が臨時に駐屯する軍営をいった。
江戸時代に入ると次の場合を指す。
1.3万石未満の無域の小大名の居所
2.大名の飛び地の支配所
3.3千石以上の旗本の役所
4.代官の役宅
5.軍兵が臨時に駐屯する軍営

飯野陣屋
飯野藩主の居所は現在の富津市下飯野に置かれ「飯野陣屋」と称した。面積約4万坪の敷地は今も延長1.6kmの周濠によって囲まれ、木々がうっそうと茂り、江戸時代に三大陣屋の一と呼ばれた壮観を今もわずかであるが留めている。
造営の時期は諸説あるが、慶安元年(1648)保科正貞が1万7千石を与えられ、諸侯に列し居所を飯野と定めたときに飯野と浜村陣屋(現在の大阪府豊中市)を設けたといわれる。

構造
陣屋の内部は通称本丸・二の丸・三の丸の三つの部分に分かれ、それぞれ溝と道路と一部土塁で区画されていた。本丸と呼ばれる部分は表門から入ると桝形高さ2mの土塁で囲まれ、中門を二ヶ所通って藩の役所・藩主の邸宅に通じている。土蔵・米蔵・営繕小屋・稽古場は柔・剣道の道場・馬場等があった。

二の丸はほとんどが上級武士の邸宅である本丸を囲むようにかぎの手に並んでいた。陣屋図では東隅に円形の古墳があるがこれは稲荷塚古墳と呼ばれていたものである。陣屋の屋敷稲荷であった稲荷神社は今は「飯野神社」になっている。
三の丸は主として山林で三条塚古墳もこの中に含まれる。三条塚の西側には角場(弓・鉄砲の練習場)があり、塚の東麓には藩校明新館があった。三の丸の西
側、濠を隔てて外邸(濠の内部は内邸)と呼ばれ、藩士の邸宅や長屋が並んでいた。外邸の北側には割見塚古墳・蕨塚古墳があり、藩士の邸宅がその周辺にまで及んでいた。

周濠
内邸を囲む周濠は幅5~6m、深さ約2mある。上の部分はいわゆる箱堀で、底辺は薬研掘(やげんぼり)となっていた。南方中央部には折り歪(おりひずみ)という屈曲部があり、また東北部には逆乙字型という凸凹部がある。共に防衛的施設の形を残すものである。内邸の周濠の総延長は約1.6km、総面積6620㎡あり、県指定史跡として保護されている。

陣屋の広さ
県指定文化財の周濠で囲まれた部分(内邸)の面積は約4万坪ある。東京ドームの3倍近くあることになる。陣屋の内・外邸の周囲にもある武家屋敷をも含めると総面積は約7万坪ある。これを他の城郭の面積と比べると合津若松城、二条城や姫路城の1.5倍の面積を有しており、大城郭に比して遜色のない広大さを誇っていると思われる。
これが江戸時代「日本三陣屋」(長州徳山、越前鞠山、上総飯野)の一つといわれた所以であろう。今では「長州徳山陣屋跡」は民家が立ち並び屋敷内の庭池が公民館の庭として保存。「越前鞠山陣屋跡」は旅館となり、当時の井戸が1箇所保存されているのみである。周濠がほぼ完全に保存され原形を止めているのは飯野陣屋跡のみで貴重な存在といえるのであろう。現在、地域住民が中心になりNPO法人を立ち上げ、陣屋の保存、文化遺産の調査研究のために活動している。

2.飯野藩
飯野藩は石高2万石の小藩であったが「総南の名門」といわれた誇り高い藩であった。
それは飯野藩主保科家の初代藩主保科正貞の母が徳川家康の異父同母妹であったことに由来すると思われる。
慶安元年(1648)飯野を居所として立藩して以来、明治維新(1868年)に至るまで約220年の間、江戸幕府の守りとして一度の国替えもなく、藩主は定府の大名として江戸城・大阪城の門番等を勤め、その領地は2万石のうち1万7千石は関西地方にあり、関東地方には飯野周辺の約3千石しかなかった。

歴代藩主の事歴
飯野藩主保科家の先祖は明らかでない。清和源氏井上掃部助(いのうえかもんのすけ)頼季の子孫であるとも或いは諏訪神社の神氏(みわし)の子孫であるとも言われている。
保科氏は正則・正俊・正直・正貞と続いて、正則が信州川中島高井郡保科村に生まれたので姓を保科と改めたという。

正直―― 正光―― 正之(会津藩祖)
∟ 女子
∟ 正重(隠岐守)
∟ 女子(黒田長政室 福岡53万石)
∟ 女子(安部信盛室 岡部1万9200石)
∟ 正貞(飯野藩祖)
∟ 女子(小出吉英室 但馬出石5万石)
∟ 女子(加藤明成室 会津41万石)
∟ 氏重(北条氏勝の養子 掛川3万石絶家)

正直の長男正光は徳川家康に仕え、天正18年多古で1万石を与えられ、慶長5年(1600)関が原の戦後信州高遠城主となり2万5千石を与えられた。元和3年(1617)将軍秀忠の三男幸松(7歳)を養子に迎え、5千石を加増された。
正光は寛永8年(1631)死去し、幸松が遺領を継ぎ肥後守正之と改め、寛永13年17万石を加増されて山形に移り後会津若松に転じて23万石を与えられ、会津藩祖となる。後に保科正貞に保科宗家を譲り、松平姓に改めた。
次男正重の母は小日向(こびなた)氏で妾腹の故をもって家をつがなかったという。隠岐守に任ぜられているが事歴は明らかでない。寛永13年(1636)死去し、木更津市の選択寺に母の墓と共にある。多劫の長女は家康の養女として黒田長政に嫁している。

初代正貞
天正16年(1588)高遠で出生。保科正直の三男で文禄3年(1594)長兄正光の養子となる。大坂夏の陣(1615年)に従い勇敢に戦う。寛永6年(1629)扶持米3,000俵で三代将軍家光に仕え、後改めて3千石の領地を与えられた。寛永14年保科正之(会津藩主)より保科家の感状・重宝などを譲り受け保科の宗家となった。慶安元年(1648)大坂常番(大坂城の外と通ずる門を守る役)となり1万石加増合せて1万7千石となり、大名に列し飯野を居所とした。4代将軍家綱時代の飯野藩主。

二代正景(まさかげ)
元和2年(1616)に出生。父正貞が流離の間から行方不明となっていたので正貞が寛永16年(1639)小出大和守吉英の次男主水正英を養子とした。正保3年(1646)正景が見つかり寛文元年(1661)45歳で家を継ぎ正英は2千石を与えられた。
貞享3年(1686)隠居し帰元と号した。貞享4年から飯野陣屋に居住し元禄13年(1700)85歳で死去。4代家綱・5代綱吉時代の飯野藩主。

三代正賢(まさかた)
寛文5年(1665)出生。貞享3年家を継ぐ。妻は佐貫阿部家初代正春の三女であるが享保2年(1717)病没した。日光祭礼奉行、大坂城中小屋口加番、大坂城青屋口加番、江戸城一橋門番、火防約等を歴任。正徳4年(1714)49歳で死去。5代綱吉・6代家宣時代の飯野藩主。

四代正殷(まさたか)
元禄7年(1694)出生。正徳5年(1715)家を継ぐ。享保2年(1717)江戸城半蔵門番。病弱のため享保3年隠居。49歳で死去。7代家継・8代吉宗時代の飯野藩主。

五代正寿(まさひさ)
宝永元年(1704)出生。享保3年家を継ぐ。三代正賢の三男。和田倉門番、日光祭礼奉行、大坂城中小屋口加番等を歴任。元文4年(1740)大坂で死去。行年36歳。8代吉宗時代の飯野藩主。

六代正宜(まさよし)
享保17年(1732)出生。元文4年家を継ぐ。日光祭礼奉行、和田倉門番、大坂城中小屋口加番等を歴任。明和7年(1770)隠居。安永7年(1778)惣髪して桂山と号す。寛政9年(1797)死去。行年69歳。8代吉宗~10代家治時代の飯野藩主。

七代正率(まさのり)
宝暦2年(1752)出生。明和7年18歳で家督相続。大坂加番・江戸城門番を数回勤め、天明5年(1785)上総国望陀郡・安房国長狭郡の領地を上総国周准郡・武射郡内に移され、大堀村の一部、杉谷村の一部、中富村などが新領地に、寛政3年(1791)大坂定番を勤める。享和2年隠居。文化12年(1815)死去。10代家治・11代家斉時代の飯野藩主。

八代正徳(まさよし)
安永4年(1775)出生。享和7年18歳で家督相続。日光祭礼奉行、大坂加番・江戸城門番を数回歴任。文化7年(1810)親類筋の会津藩が相模・伊豆の沿岸防備を命ぜられたが、藩主松平容衆が幼少のため、正徳が後見を勤める。文化8年(1811)篠部・川名両村が白河藩領となり下総国香取郡内に領地替えされる。文化14年病気のため隠居。天保15年(1844)死去。11代家斉時代の飯野藩主。

九代正丕(まさもと)
享和元年(1801)出生。文化14年に16歳で家督相続。日光祭礼奉行、大坂加番・江戸城門番を数回歴任。弘化2年(1845)青木村の海岸に異国船の見張番所を設置。嘉永元年(1848)大坂城中で病死。11代家斉・12代家慶時代の飯野藩主。

十代正益(まさあり)
天保7年(1836)出生。実は出生の砌(みぎり)虚弱のため届け出せず。丈夫になってからの届出で、実は天保4年である。嘉永元年(1848)13歳で家を継ぐ。日光祭礼奉行、大坂城中小屋口加番,、江戸城門番等を歴任。元治元年(1864)水戸天狗党の浪士25名を飯野藩邸に預かる。慶応2年(1866)若年寄に。同年7月長州戦争に従軍、石洲口取締を命ぜられ、休戦となって10月に大坂に帰着。慶応3年江戸に帰り、若年寄を辞職。慶応4年正月飯野へ移り、3月青木浦から出帆して京都へ上がったが、謹慎を命ぜられ6月許された。明治2年(1869)6月版籍奉還して飯野藩知事となり、明治4年7月の廃藩置県により職を免ぜられ以後飯野県と称した。明治22年(1889)死去。13代家定~15代慶喜時代の最後の飯野藩主。

ここに10代、223年にわたり存続した飯野藩が終焉。

飯野陣屋・飯野神社入口

参考:「エコトピアほしな」
http://www.npo-hiroba.or.jp/search/zoom.php?pk=52083
「飯野陣屋跡」
http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kanto/iino.html