西房総街道(旧房総往還)をたどる。その1

木更津は昔から千葉から館山方面に至る西房総街道(旧街道)の主要結節点であり、上総の中心となる町の一つである。旧街道の両側に古い商家などが並んでいて、昔の繁栄を忍ばせる。

木更津から富津公園に行くバスはいわゆる旧道を通る。
昔の西房総街道であり、また旧国道16号でもある。(一部まだ16号として残っているところもある。)

木更津の市街を抜けると、山すそを通る狭い道で、たぶんこのあたりが昔の海際だったと思われ、所々で両側に古い家並みを見る。

こういう、古い街道をたどって、昔の面影を見出すのは一つの楽しみでもあるが、古い地図と現代の地図を見比べると、かなり道筋が変わっていることがわかる。

インターネット上でも、旧街道を歩く記事が多く見かけられるが、この中の主要関心事の一つは、旧街道が現代のどの道に当たるかという探索でもある。

私の愛用するソフトウエア「カシミール3D」は、いろんな地図が使えるのも特徴だが、最近では複数の地図を重ね合わせて見る機能をサポートしている。

この機能を使い、現在の国土地理院の地図と明治初期の「関東平野迅速測図を重ね合わせ、古い地図の道筋を、現代の道筋で辿ってみた。

この地図は江戸以前の古地図と違って一応測量に基づいて制作されたものなので結構精密だ。
しかし、作られた明治初期の測量技術の限界か、また明治初期のまだ混乱の収まらなかった時期に文字通り”迅速”に作ったものなので、現代の地図と比較すると地図の精度がやや劣る。
また地図上に経緯度は記載されていない。
従って図郭間のつながりが悪かったり、現代の地図と重ねるとところどころにずれが生じたりするが、私の用途では、大筋問題が無い。

さて、この地図で木更津周辺を見ていたら、木更津以南の西房総街道は複数あることに気付いた。
その一つは、現在の国道127号線に近いルート(図1の一番東寄りのルート)であり、もう一つは君津駅付近を通って南下する、現在ではそれらしい主要道が無いルート(図1の真ん中)である。

現在、高速の館山道を除けば、木更津から南、館山方面に行くには、主に国道127号線ルートと、富津を通って海岸近くをたどる国道465線ルートの2つがある。
街道歩きとして、房総街道を歩く人たちは、主に後者の海岸線の道を旧街道として歩いているようだ。

しかし、この地図が作られた明治初期の「西房総街道」はこの海岸線の道ではないようだ。

図1:明治初期の西房総街道(クリックで拡大表示)
図1明治初期の西房総街道

図2:現在の地図上の西房総街道(クリックで拡大表示)
図2現在の地図上の西房総街道

現在富津行バスの走る旧道(昔の16号線)を通って富津に至り、南下する道(図1の一番西寄りのルート)
ももちろん迅速測図に記載されているが、これは房総街道と言う主要街道ではない。
「従木更津至富津道」などと書かれており、村々を結ぶ地元の道であったようだ。
また、この道も、現在のように、大和田など旧海岸線の南に連なる丘陵と海の間を辿るのではなく、途中から丘陵を南に越えて、この南裾をたどって人見に抜ける道であったようだ。
ここらあたりの北側は海岸線が山すそに迫っており、地図上もごく細い道しか書かれていない。

関東平野迅速測図にある、西房総街道の2ルートの一つは、大筋では今の127号線のルートに近い。
ただ、現在のルートは木更津の旧市街に入らず、そのまま南下しているが、明治初期は当然ながら木更津の市街地を経由し、更に海岸線の旧道から現在の桜井郵便局のそばの交差点で分岐し、ここから、山すそをまわって君津中央病院そばで現在の127号を横切り、烏田川に沿って東南に下る。
中辻あたりで川筋を離れて南下。大久保、畑沢を経て子安坂に至り、内箕輪の賽神社の裾を通って外箕輪で現在の127号線に合流する道がそれのようだ。
以降は上郷で分かれて旧小山野隧道を通り、岩富あたりでまた合流する以外は、佐貫まで、ほぼ現在の127号線に沿っている。

もう一つのルートは、より古いルートであるらしい。今の地図では畑沢の浅間神社の西で旧海岸線を離れ、古い道を南下し、畑沢川の流れを渡って丘の上にあがり、今の畑沢の住宅街を通って君津駅付近に降り、更に南下して小糸川を渡り、釜神、湯江を経由して三船山の台地を南下して北上で第1のルートに合流する。

現在は、これに該当する主要なルートは無いが、宅地開発などで消えた部分を除くと、現在でも細いながらもそれらしい道を見出すことができる。
そこで、この第2のルートを目指して、旧街道探索を試みることにした。

お天気に恵まれた12月の土曜日、会社の同僚でハイキングも好きなKさんと一緒にこのルートを歩いた。
二人とも前夜はそれぞれ別の集まりで遅くまで飲んでいて、出発を少し遅くしたものの、やや二日酔い気味のスタート。

まずは、今回歩いたルートの全体像を図3(右図スマホでは下)に示す。

緑線が明治の地図から拾った旧街道の概要。赤線は今回歩いたGPS軌跡。
宅地開発や、耕地整理で古街道が消えた部分もあるが、思ったより忠実に古街道をたどれた。

第2ルートの起点である畑沢バス停あたりで待ち合わせ。
私は少し早く着いたので、すぐそばにある浅間神社を探索。これは旧海岸線の背後の丘の上にある。
二日酔いの身には少々きつい石段登りだったが、酔い覚ましをかねて一周した。
やはり古い街道の周辺にはこういう古い社が多いようだ。

畑沢の分岐点付近の写真。すぐ左の山の上に浅間神社があり、幟がたくさん。

歩い始めてまもなく、新しいバス道を横断し畑沢川にかかる小さな橋を渡る。

畑沢川の左岸から君津駅までの丘越えの部分はほとんどが開発され、新しい住宅地として今回のコースのうちで一番古街道が見えない部分。
古い地図には稜線上に道が付けられているように見える。
畑沢川の谷と丘の上の君津台の間に君津・木更津の市境が同じく稜線上にあり、このあたりが古街道のはず。
今の地図では丘の途中に池があり、この傍を通る小道が描かれている。この道が旧街道らしく見えるが、ここは私有地なのか。鉄柵で囲われており立ち入れない。
とにかく、住宅地内を境界線に近いルートで南を目指す。

木更津市側の畑沢と君津市側の君津台を隔てる緑地が途切れ、やっと君津台に上がるも、全体が開発された住宅地で旧街道の面影はどこにも無い。
唯一、市境に削り残された細い山が旧街道と重なりそうだが、道は無い。
丘を降りはじめると、部分的に、自然に屈曲したような坂道があり、たぶんこれが旧街道の名残だろう。
平地に降りる直前の坂の途中にお地蔵様を発見。地名は高坂。やっと旧街道らしい道に出会えた。

坂を下り、広い道路を渡るとすぐに内房線の線路に行き当たる。
ここは君津駅の東の端。昔の君津駅はこのあたりにあった由。
線路の向こうにスーパーがあり、旧街道はこの店の西側の道につながるようだ。

スーパーの南西の交差点から斜めに南西に入る道を行く。これが昔の君津駅前商店街だったらしいし、旧房総街道のルートでもある。道の両側にそれらしい商店などが並んでいるが営業しているところは少ない。
商店街を抜けて道なりに進むと大きいカーブで南南東に向きを変え、やがて住宅街の新しい道に当たる。
旧街道はこのまま小糸川を渡っていたようだが、このルートも消滅している。
すこし東に迂回し橋で小糸川を渡る。

小糸川に架かる橋を渡ると、右手の集落の中から来る細い道があり、これが旧街道の一部らしい。
ここからは現在の道路が旧街道の道筋になる。


この集落(釜神)の外れ、集会所の前にお地蔵様や石碑が集まった一角があった。その裏は細い流れ。
このあたりは小糸川の支流が集まるところ。小糸川自体も流路を変えた可能性もあり、川跡と思われる三日月湖状の地形が目立つ。
ここの石碑類も流路の土手にあるもののようだ。


道をたどって、いくつかの流れをわたると上湯江の集落。
旧街道のルートの延長線上、駐車場の端に道標らしいものがある。車の往来が多く、当日は、道をわたって確認に行くのはあきらめた。(後日確認したが明確な道標のしるしは読めなかった。)
しかし、旧街道を示す痕跡の一つではあろう。


上湯江の集落の中を通る旧房総街道入り口。これを抜けると山道への入り口があり、ここで初めて”房総往還”を示す標識を発見。
房総往還は君津市の歴史遺産として、このあたりから整備されているようだ。

この入り口から、房総往還の先を見る。ここから当分人家は無く、三舟山の東側の台地、畑と森の中をを抜ける道となる。
先ほどの標識以外にもところどころに標識があり、安心して歩ける。


ほどなく視界が開け広い畑地に出る。目の前には三舟山の低い丘陵が広がっており、伸びやかな眺め。
ところどころ、農作業をしている人も見える。


ところどころにあるわき道など、迷いやすいところにはこの標識があり、ずいぶんと心強い。


畑地を抜けると山道。起伏はさしてないが両側はうっそうと茂った藪。中を通る道はそれなりに広いがだんだんと荒れてきて、真ん中も水流でえぐられたりして、山歩きの様相になってきた。


ほどなく、大きな石碑を発見。「従是北千葉縣上総国君津郡貞元村」と読める。今通ってきた上湯江の集落も含めて貞元村だっようだ。古い石碑の割には風化せず、きちんと文字が読める。まぁ楷書だからもあるが。


お地蔵様発見。お地蔵様は街道のシンボル。道が間違っていないこともわかるのは、江戸の昔も同じで、一種の道標の役割も果たしていたのだろう。


今度は道標発見。草書で彫ってあるので読めない部分が多いが、「さぬき道」はわかる。
以降も多くの道しるべを発見したが、さぬきの文字だけは読めることが多かった。


長かった山道も終わり。舗装の大きな道路への出口にまた道標。ここ以南では主要な分岐点にはかなりの高確率で道しるべがあり、現在もちゃんと機能しているのには感心した。都市化で大きく変貌した地帯と異なり、ここらは多少の道路の改良はあったとしても、道筋はあまり変わらず、道標も保全されているのだろう。


大きい道路に出てすぐ左手に新しい覆屋あり、中をのぞくと崖に掘られた窟の中にお地蔵様。
覆屋を含めて地元で大切にされている様子がわかる。道中の無事をお願いして後にした。
広い道路と交差したところから、旧街道は田んぼの中を抜けて向こうの山すその集落に向かっていたはずだが、耕地整理されたらしい跡のある田んぼにはそれらしい道は無い。
仕方なく現在の道をたどると、ほどなく地図上で南谷と記された集落からの道と交差する。
これが旧街道のはず。左折して旧街道に沿って進む。


すぐに三叉路に出る。この角にも道標。房総街道はここを右に取る。集落の中を進むとほどなく先ほど分かれた広い道に合流。
これから当分、この道をたどる。低い峠の切り通しの崖の上に工場あり。悪臭がする。
旧街道の頃はこんな切り通しではなくてもっと山を登った峠だったのだろうが、現在は幻滅させられる峠になっている。
峠を降りていくと、左手に農地が出現。左に入ってこの農地を巻いて旧街道が通り、丘を越えて大堰という集落に降りる。


広い道を右にとり、老人の福祉施設を過ぎて細い道を左にとって川を渡る。この分岐点にも道標がある。
しっかり道標があるのは、旧街道探索には非常に力強い見方だ。


橋を渡って向かいの山すその道に着くとここにも道標。至れり尽くせりだ。ここを左に行く。


右手に細い谷地形があり、この谷の左手を通る道が旧街道。この分岐にも道標。道は間違いない。
この細長い谷の集落は百坂というようだ。これまでの集落すべてに共通だが、大きくて立派な家が多い。
集落を南につめ、低い丘陵を越える。しばらく山道を進むとまた谷筋に降りてくる。
谷の向こうで自動車道路に合流し、やがて右手に集落の中に入る道がある。これが旧街道。
集落を抜けて、再び自動車道に合流し峠を降りると北上で127号に合流する。
現在の127号の手前に古い道が続いている。
これがもうひとつの西房総街道のルートであり、ここから佐貫に向かう。

やがて、左折して北上川を渡り、佐貫の町に入る

佐貫の町の通りが今の127号線と交差する角に古い醤油屋を発見。立ち寄ってみるといかにも昔の商店。
あがりがまちに商品が並べてあり、歌舞伎に出てくる江戸の商店の構えと同じ。
店の裏では実際に醤油を製造し、見学もさせてくれるらしい。
宮醤油店をあとにし、佐貫町駅に向かう。
川を渡り、富津方面からの旧道、館山方面への旧道を見ながら直進すると正面に佐貫町駅。

駅前の食堂でKさんと乾杯。GPSで記録した今回の歩行距離は13Kmあまり。歩数は2万歩少々。
時間も3時間半で思ったより早く到着した。
このルート、思ったより昔のルートが保存されている。
昔の道標もたくさん残っていて、旧街道歩きとしては非常に良いルートだ。距離も手ごろ。

今回の全ルートの実際に歩いた軌跡は図3(右図スマホでは下)の通り。旧街道との一致率は高い。

食堂での乾杯も最高、最後はKさんの奥様に迎えに来ていただき、帰りに近くの東京湾観音の展望台からの眺めを楽しんで、充実した一日になった。
さぁ、次回はどのルートを歩こうか。

図3:今回歩いたルート(GPS軌跡)

西房総街道その1-図3