ゴールデンウイークの雑踏を逃れ近隣に散在する文化財を訪ねた。今回は青堀駅からの探訪コースである「内裏塚古墳群」を歩いた。内裏塚古墳群は今まで確認されている古墳の総数は48基で、このうち古墳が現存する古墳は25基と言われている。JR青堀駅ロータリー向いの上野塚古墳をスタートにさわやかな風を味方に歩いた。

青堀駅
駅員のいない時間帯であったのか無人の青堀駅にはチラホラと旅行者がいたが、ひっそりとした駅舎でローカル線そのもの。列車の到着アナウンスの電子音がわびしく感じた。

青堀駅

上野塚古墳
駅前ロータリーそばのコンクリート壁に覆われた雑草の茂った塚が上野塚古墳。
コンクリート壁には主な古墳の絵が描かれており、古墳の多さを垣間見ることができる。

上野塚古墳

JR青堀駅を起点とした古墳群を少し紹介しょう。
青堀駅の自由通路(跨線橋)を登ると橋上通路に代表する古墳の案内絵が描かれており、古墳を訪ねるのにそれほどの距離のないことがわかる。

橋上の案内絵

左側の階段を降ると古墳群の詳しい案内図と案内所(古墳の里 ふれあい館)がある。
ふれあい館一帯は、土地区画整理により広い道路がまっすぐ走っており、静かでのんびりとした雰囲気である。

自由通路から望む駅前通り

古墳の里ふれあい館

内裏塚古墳(国指定史跡)

青堀駅から約500メートルに位置する内裏塚古墳は前方後円墳で、主軸長さ144m、後円部径80mと千葉県下最大で南関東地方最大のものと言われている。うっそうとした森が古墳を想像させる。最初にあった説明文(看板)は雑草や竹が伸び看板の説明が完全に読むことができない状態であり、もう少し大切な文化財を大事にする配慮して欲しいと感じた。

内裏塚案内

内裏塚古墳全景

内裏塚古墳説明看板

西側の大通りを少し行くと内裏塚古墳への登り口に出会う。こちらが正式な見学口のようだ。
古墳を登っていくと、頂上には「内裏塚」の石碑があり昔をしのばれるものがある。
頂上からは房総の山並が少しではあるが望むことができる。昔はもっと広く一望できたことであろう。

内裏塚の石碑

内裏塚の石碑と並んで「珠名娘子(たまなおとめ)」の塚碑もあり、説明によると奈良朝時代の美女を知る具体的な資料の一つが「珠名塚」となっているとのこと。
「・・・それにしても奈良朝の典型的な美人像が富津市の一女性によって提供されていることは、考えただけでも愉快ではありませんか」と説明に添えられている。

珠名娘子塚

白姫塚古墳

内裏塚古墳から約400m先の道路反対側の路地を進むと道標が見えてくる。
民家の入口に案内板が立っているが、民家の入口のため塚の存在が確認できない。
少々入りにくい。庭先の玉砂利を踏んで行くと奥に塚が見えるが小さい。
地元の人に場所を尋ねないと見ることができない塚の一つであろう。

民家先の案内

白姫塚

飯野陣屋跡・飯野神社

飯野藩主の居所が現在の富津市下飯野に置かれ飯野陣屋と称した。
陣屋の面積は役4万坪と広大な敷地を持ち、本丸、二の丸、三の丸を備えた偉容は日本の三大陣屋の一つと称され、そのうち現存するのは飯野陣屋のみといわれている。
今は飯野神社が陣屋跡に建立されているが、神社前の店で陣屋の話しを聞いたが、主であった藩主保科氏を親しみをこめて「保科さん」と呼んでたのが印象的であった。
飯野陣屋については別途詳しくご紹介する。

飯野陣屋跡

飯野神社の由来は寛永年間(1624~1644)に陣屋東側の稲荷塚古墳上に稲荷神社を藩主保科正景が再建し、宝暦8年(1758)、6代藩主正宜が現在の地に遷した。
明治の末年に神社の統廃合が国の方針にしたがって村内にあった十数社の神社をこの稲荷神社に合祀し、明治44年(1911)に飯野神社と改称した。
大正4年(1915)、本殿・幣殿(へいでん)・拝殿を新築、境内を拡張し、広い表参道もこのときに造られた。大正12年(1923)9月の関東大震災で拝殿・幣殿は倒壊し、花崗岩で造られた鳥居も折れた。大正15年(1926)、社殿・鳥居が復旧、補修された。平成16年(2004)、社殿を新築。

飯野神社

表参道

三条塚古墳
三条塚は飯野神社の裏手に位置する古墳で古墳群の中では2番目に大きい。全長200メートルあまりの二重周溝を有し、外集溝の西側は江戸時代の飯野陣屋の周溝にも利用されていたという。

三条塚古墳

割見塚古墳

三条塚古墳の北方に位置しているが、塚の近くまで行くことができないため遠方から森を見て古墳を想像するしかない。多くの古墳は消滅したり古墳に足を踏み入れることのできないものが大部分である(当然?!)。
墳丘は一辺40m、高さ5m、外辺110m弱の大形二重周溝の存在が明らかにされた。石室は11.7mと千葉県最大の石室で、全国的にも屈指の規模である。当時の豪族の力が絶大なものであったことが容易に想像できる。
割見塚古墳の近くにある「蕨塚古墳」は小さな森で、地元の人に訪ねないとわからない程の塚であった。

割見塚古墳を望む

(内裏塚古墳群周辺図)

内裏塚古墳群は富津岬の北側の付け根付近、小糸川下流域に分布する古墳群で、昔は「飯野古墳群」と呼ばれ、一時期は「富津古墳群」と呼ばれていたことも
あったとのこと。
複数の町村にまたがることもあり、代表的な古墳名を冠した「内裏塚古墳群」が公式の名称になっている。
じっくり、時間をかけて昔をしのびつつ現存する25基の古墳群を訪ねることも自分たち地域の財産を知ることは意義あることと思う。

(参考:今回歩いたルート)
JR青堀駅 →上野塚古墳 →(古墳の里ふれあい館) →内裏塚古墳 →白姫塚古墳→九条塚古墳 →飯野陣屋跡・飯野神社 →三条塚古墳 →蕨塚古墳 →割見塚古墳→(古墳の里ふれあい館) →JR青堀駅

(参考資料)
・飯野藩付 飯野陣屋(発行 エコトピアほしな)
・内裏塚古墳群 富津市文化財ガイドブック(発行 富津市教育委員会)